村上春樹「シドニー!」

 18日の東京国際女子マラソン、みなさんは見ましたか?
 やはり女王・野口みずきは強かった。ただ者ではない。35kmから先、普通ならただただ死にかけた身体をゴールへ運ぶだけというような段階に来て、さらにペースを上げることが出来るとは。しかも上り坂である。今回のレースで、彼女の北京五輪出場は確実となったろう。
 残念だったのは渋井陽子。力のある人だけにオリンピックでの彼女を見たいと期待していたが、今回の選考レースでは決めることができなかった。30km手前でずるずる失速してしまった。何があったのだろう。見たところ、足に来ていそうな感じだったが。今後、大阪や名古屋の選考レースに出場するだろうか。調整は大変だと思うし、高橋尚子や坂本直子などのライバルも控えているが、何とかチャレンジしてほしい。
 そんなわけで早くも北京五輪に思いを馳せている(といってもマラソンだけだけど)私が今読んでいるのがこの本。
 私と同じで、普段はマラソン以外の競技をオリンピックで観ることがほとんどないという春樹氏が、どういうわけかシドニー五輪を現地で観戦。しかしここは彼らしく、10万円もする開会式のチケットを持っていながら、あまりの退屈さに途中退席したり、わけもなく車を駆って大陸を長距離ドライブしてみたりと、「見たいものを見る。見たくないものは見ない」を貫いている。だから本書には柔道とか水泳とかシンクロといった、いかにも日本人の興味を引きそうな競技は載っていない。ヤワラちゃんを見ずになぜかハンドボール決勝・ロシア対スウェーデン戦なんてのとか、日本人が全然出てこない砲丸投げとかを熱心に見ている。誰にでも書けそうなオリンピック観戦記ではなく「自分にしか書けないもの」を追求する春樹氏の姿勢が表れている。
 春樹氏と大方の日本人の興味が一致する競技はおそらくひとつだけ、マラソンである。彼は高橋の優勝シーンはもちろんしっかり見届け、記者会見にも参加している。惨敗した男子マラソンも見届けている。しかし春樹氏は単純に勝者をたたえ誉めそやし、敗者を惜しむという姿勢を取らない。本書は冒頭とラストに犬伏孝行と有森裕子という二人のマラソンランナーを登場させている。つまり、シドニーで途中棄権という形で散ったランナーと、スタート地点にすら立つことのできなかったランナー。この二人の「敗者」のエピソードに、金と熱狂に満ちたオリンピックの模様がサンドイッチされるという形を本書は取っている。
「永遠に勝ち続けることのできる人間はどこにもいない」
 一度は栄誉に酔いしれた者も、いつかは敗北を味わう時が来る。それでもそこで人生を終わらせるわけには行かず、人はいつか再び勝てるかどうかの確信さえ持てないまま、生き続け(戦い続け)なければならない。春樹氏が一番訴えたいのはこのことだろう。だからこそ、彼は単純に金メダリストの後ろを金魚の糞のようについて回るだけの取材を嫌い、もっとリアルな「人間の戦い」に触れようとしたのだと思う。
 金メダルに輝き「QちゃんQちゃん」とちやほやされた当時から7年。春樹氏は今どんな思いで、かつての勝者・高橋を見ているのだろう。アテネ五輪で勝ち、北京の切符もほぼ手中に収め、前人未到のオリンピック女子マラソン2連覇を成し遂げようとしている野口のことは? 市橋有里、山口衛里、真木和といったかつての五輪ランナーのことは? 私としては、おいやだろうとは思うが、ぜひとも北京五輪の観戦記も春樹氏に書いてほしい。マラソンだけでもいいから。勝ち続けようとする人間、敗北していく人間、その挑戦の模様を書いてほしい。それは規模こそ違え、私たち自身の姿でもあるはずだからだ。
シドニー! (コアラ純情篇) (文春文庫)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0