小学校PTA副会長もあと5ケ月……!

 加納朋子さんのPTA小説を続けてレビュー(というほどのこともないけれど)しましたが、「PTAって、人が思うほど恐ろしい所ではありません。もっと恐ろしい所です」という言葉がぴったりの、前近代的で時代錯誤で自己犠牲的な、そういう場ではあります。

 我が小学校は児童数も少なく、2クラス作るのがやっと。数年前は廃校の危機とまで言われていました。
 ところが市長の方針で、「子育てファースト」に思いっきり舵を切ったこともあり、そんな不動産屋さんにまで見捨てられていた我が町にも子育て世帯が増え始め、廃校の危機はとりあえず免れてはいます。

 しかし世帯が増えたからといって、PTAの負担が減るわけではありません。
 専業主婦が多かったこの街も今や働くお母さんが主流で、かといって働いていることを辞退理由にはできないため、結果、お人好しで仕事もPTAも引き受けてしまう性質の人に、負担が集中するかっこうになっています。
 
 「PTAの何が嫌? トップ3」というのがあるとするなら、以下のような感じでしょう。
1.仕事を休まなければならない(「またPTAで休みか……」「なんで役員なんてなったの?」などと嫌味を言ってくる上司も)
2.ボランティアのわりにやるべきことが多すぎる(日給5,000円くらいは欲しいくらいの仕事量)
3.やる人とやらない人の負担感の差が大きすぎる(不公平感はんぱない)
4.「子どものために」やっているはずが、自分の子どもを犠牲にしている(PTAの業務のために子どもに学童に行ってもらうとか、なんか変じゃない?)
5.実働部隊は母親ばかり(父親が出てくれる家庭もあるけれどまだまだ十分ではない)
6.地域の各団体との付き合いに忙殺され、本当にPTAとしてやりたいこと(子供とゲームとのかかわりについて保護者みんなで話し合う、いじめや不登校問題や学級崩壊問題を話し合って解決に導く、など)がまったくできない

 あれ、トップ6になってしまったが、こういうのがあることを人づてに聞いたり、ネットで見たりして、なんとなく怖そうなイメージができてしまい、仕事などを理由に役員から「逃げ」たり、PTA自体に加入しなかったりという(実は任意であるということがネットで広まっていることもあり)保護者が増えていて、担い手が少なくなり、選出会は本当に我々本部役員にとって重荷になってしまっています。

 けれどPTA側にも問題があって、嫌々やってるからついつい顔も怖くなり、すんごい負担が多いからそれを隠しておかないと誰も引き受け手がないだろうという恐怖からことさら業務内容を隠し倒し、引き受けてほしいからとはいえついつい威圧的な「選出会には必ず出席して下さい」みたいな文言を書いてしまい、つまり私たち自身も「PTA=怖い」というイメージを助長してしまっているところがあります。

 とはいえ、やっぱりしんどいもん。緊張もするもん。失敗したら責められるもん。笑顔ではできませんよ。

 なのでここはやはり、各方面と協議の上で少しずつでも業務を減らしていく。 それと同時進行で、業務の「見える化」を少しずつでも進めていく。 せめて時間的な拘束がどれくらいかくらいは公開したっていいはず(基本的に子供が学校に行っている時間であることすら知らず、午後とか夜とか土日とかも業務があると思ってる人は多い)。
 
 少しずつ負担を減らしていくことで、役員の笑顔も少しずつ増えていき、どんな状況下にいる人でも無理なく参加できる「持続可能なPTA」ができていくと思うんですけどねえ。

 PTAが消滅しちゃってもいいのなら私も何も言いません。
 でも実際、困るんでしょ? 地域のお祭りができなくなるんでしょ? 登下校の見守りをしてくれる人もいなくなるんでしょ?
 子どもたちや学校や地域のためにPTAが必要なのであれば、存続可能な状態にしていかないと……。

 なんてことを、実際の話し合いの場ではなかなか発言できず(みんなが発言しまくるから)、こういう場にしか吐露することができないのでありました。

幼稚園PTA役員だった頃はこんなんでした

PTA
 そんなわけで、PTAと学童の役員として絶賛大忙し中の私だが、実は5年前は、幼稚園のPTAやってたんである。 

 私は本部役員ではなく、愛護人権部の副部長という、そんなに忙しくなさそうな役職だったので、まあ本部の人たちみたいにずっとPTA室に「住んでる」ようなことにはならないだろうと高をくくっていたら、「住んでる」まではいかないまでも「プチ出勤してる」くらいの忙しさにはなっていた😖
 ベルマーク集計や庭の草引き、地域の人権協議会への出席、保護者全員大掃除の指揮などを主な業務としていて、一年通してずーっと地味に忙しいという感じだった。
 生協の協同購入も2週連続お休み、下手したら3週連続お休みということも。
 
 当時の日記を抜粋してみると……。

 ☀あっつ~い……。覚悟していたとはいえ、7月のPTA室、扇風機のみ、窓あけ放し、8人くらいのお母さん方でむんむんの中、ベルマーク集計したり書類作成したり打ち合わせしたり。夢中でやってるから熱中症になりかけても気づかない。恐ろしい。お茶飲んで辛いお煎餅食べて乗り切った。

 ☀一学期最大の山場! 草引き&地区別懇談会、無事乗り切ったぞー! ああ暑かった😵私は草引きチームだったので収納用品の搬出しないで済んだけど、搬出チームの役員各位お疲れ様でした。えらい時に役員になってしまったものよ。

 ☀ナイトウォーキング~。なんていうおしゃれなものではなく、ただ単に中学校区PTA及び地域の人々とパトロール👟 蒸し暑いし、うちから中学まで2往復もさせられて疲れた~。晩御飯の時間帯だったのでこっちはおなかもすいてるし……。

 ☀朝から草引いて打ち合わせして歩いて買い物行って家で弁当食べながらP仕事してこれから七夕飾りつけして、その上で炎天下、子供の公園遊びにつきあう&へたすりゃ誰か連れてくる……もう勘弁してくれ😵 でも勘弁してくれないのが子供なんだよな。

 ☀PTAでテトラパックを回収してるんだけれど、なかなか集まらない😵 軽く洗った状態で持ってきてもらったらいいんだけれど、それも面倒っちゃ面倒だものねえ。そしてそれらを切り開いて、ずぶずぶにぬれたやつをもう一度きれいに洗って乾かすのは我々の仕事…

 ……なんか😵マーク連発で、しんどかったんだなあと改めて。
 この幼稚園のPTAに比べたら、小学校のPTA なんて屁やで、と先輩ママに言われていたが、なんのなんの、小学校だって結構大変じゃないか。
 まあ、毎日出勤でこそないものの、仕事しながらだとやっぱり、行事を休んだり仕事の方を休んだり、夫に休んでもらったり、なんだかんだと調整が必要。
 一番の違いは、幼稚園は「専業主婦である」という前提があったこと(まあ、最近の幼稚園は働くママさんも多いかもだけど)。
 小学校はといえば、現に我々PTA本部役員はほぼ全員が働くママである。すべての行事に出席することなどとてもではないができない。「出られる人が、出られる日に」が原則となる。私も会長の代理でずいぶんいろんな団体の総会に出席した。
 私が住む地域では、秋に最大のイベントがある。幼稚園PTAの頃だってそのイベントの準備はものすごく大変だった。しかし小学校PTAではまた別の大変さがある。なんと、すべての団体をとりまとめ、資料を作り、実質的な運営をしていくのが、小学校PTAなんである。
 勘弁してくれよ……😵😵😵
 なんでそこまでやらなきゃいけないのか……嘆いていたらきりがないので、また別の機会に続きを書きます。やれやれ。

中山可穂「銀橋」

 中山可穂さんの「男役」「娘役」に次ぐ、宝塚シリーズ第3弾が出ていたことを知り、さっそく読みました。

 人気男役・レオンこと花瀬レオと、ナッツこと永遠ひかるの間の学年に当たる、実力派男役・ジェリコこと鷹城あきらが今回の主人公。

 いぶし銀の輝きを放ち続ける超実力派専科の男役・アモーレこと愛河凛(そういえば大河凛って男役さんがいたな)に憧れ続け、恵まれたルックスと実力にもかかわらずスター路線に乗ることをかたくなに拒み、新人公演でもアモーレさんの役をゲットし、別格男役として宙組で不動の地位を築いていたジェリコ。

 ある日、音楽学校時代から親しくしている上級生・レオンが、花組から宙組に異動してきてトップになる。
 ジェリコにとっては願ってもないことである。
 しかもそのお披露目公演は、アモーレさんの退団公演ともなってしまい、ジェリコは気合を入れて稽古に臨むが、千秋楽を前にまさかの事態が起こる。アモーレさんが公演中に姿を消したのである――。

 「男役」からの通しキャラであるレオンと、下級生のナッツの禁断の(?)関係性がその後どうなったのか、ナッツの憧れの人であるパッパさんこと如月すみれの謎、などなど、通して読んできた読者には興味をそそられる内容であり、ジェリコとアモーレさんの師弟関係にも涙が。
 実際の専科さんってどうなんだろう。すみれコードぶっちぎりで言えば、下手したら還暦前後のお姉さま方である。アモーレさんのように舞台でのケガがもとで視力が極端に落ちてしまっている人、持病を抱えている人もいるかもしれない。
 もっとも、アモーレさんのように自らの退団公演の途中に劇場を出ていき、武庫川の河原で心臓発作を起こして倒れるなんてことが現実に起こったら大変だが、タカラジェンヌとして年齢を重ねていく過程には、人には言えないしんどい状況も往々にしてあるのかもしれない。
 タカラジェンヌは全員が未婚の女性だが、若い時期は誰にとっても永遠ではない。退団したら一人の女性としてどう生きるのか、残るなら残るでどう、タカラジェンヌとして生きていくのか、そんな姿を、パッパさんとアモーレさんは読者に示してくれているのかもしれない。
 
 個人的には、ジェリコのお父さんのキャラがなんとも言えず味があると思った。
 堅物な、誰も笑顔を見たことのないほどの大学教授が、まさかの一人娘のタカラヅカ志望という事態に大いにうろたえ、とことんタカラヅカについて調べつくし、ジェリコの入団後はすべての公演に足を運び、DVDもすべて買うのである。
 親子なのに敬語で話す父が、タカラヅカという共通項でなんとか娘との距離を縮めようとする、そんな不器用な、ぎこちない親子愛がなんだかしみるんだな。
 リアルジェンヌさんのお父さんにも、そういう人が結構いるのかも……?


銀橋
KADOKAWA
2018-09-21
中山 可穂

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中山可穂「娘役」

 中山可穂さんの「男役」に次ぐ、宝塚シリーズ(?)第2弾は、タカラヅカの娘役と、彼女に純粋な愛をささげるヤクザの組長という、ありえないようであるかもしれないファンタジーである。 

 大鰐組組長・ムッシュこと大鰐健太郎を殺るべく、尾行を続けてきた他組の若衆・片桐蛍一。
 ある日、ムッシュが入っていった先、それはなんと宝塚大劇場……。
 大いに戸惑いながらも当日券をゲットし、背後からムッシュの首に手をかけたその瞬間、舞台上でラインダンスを踊っていた初舞台生・のび太こと野火ほたるが勢いよく飛ばしたハイヒールが片桐の目の前に飛んできたのだ。
 なぜか片桐はそのハイヒールを持ち帰り、夜の大阪の街をシューズリペアキットを探して奔走し、一晩かけて修理し、宝塚歌劇団雪組に送り返す。
 ほたるが飛ばしたハイヒールは、天からの啓示だったのか。片桐は組を移籍し、大鰐組預かりになる。ムッシュの話し相手となった片桐に、もう自分は長くないと悟っていたムッシュは、自分が知る限りの宝塚歌劇の知識を教えるのだった。

 チンピラ上がりから組内二番手、そして組長へと、組内でめきめき地位を上げる日々の中で、片桐はほたるに思いを寄せ続け、ほたる会に入り、花代をたっぷり弾み、しかしお茶会には決して顔を出さず、あくまでヤクザとしての分をわきまえてひそかにほたるを応援するのだった。 
一方のほたるは、子役専科と揶揄されるほど子役が続き、初めての新人公演ヒロインで主演の薔薇木涼とのデュエットダンスで尻もちをついてしまうという大失態を犯し、初めてのバウホールヒロインで練習しすぎて疲労骨折してしまうなど、苦難の娘役生活を送っていた。

 そんなある日、雪組行きつけの寿司店で、片桐とほたるは生涯にたった一度、言葉を交わすこととなる――。

 クールで熱い、クレバーにして大胆な片桐がとにかくかっこいい(その苦み走ったいい男ぶりから、雪組の組子たちからは「健さん」と呼ばれる)。現実にこんなヤクザさんいるんかしら、というくらい。 そんな片桐が、ほたるのこととなれば途端に純情になるのがまたかわいい。
 片桐が拾われる「大鰐組」の描写がまたヅカファンには受ける。なにしろ組長以下組員全員に愛称がつけられ(ちなみに片桐は「ギリ」)、若頭は「二番手」と呼ばれ、組のモットーは「品格・行儀・謙虚」(これ、実在したタカラヅカの大御所・春日野八千代御大が、タカラジェンヌの心得として口を酸っぱくして言っていた言葉)。 組長がヅカファンだからってこんなに徹底するとは、と、笑いながらも、こんな組があったらいいなあとも思う。
 一方で、チャンスを次々にふいにしながらも別格娘役として活躍していたほたるが、なんと研10(入団10年目という意味です)でまさかのトップ就任(これは娘役としてはかなり遅い部類)! 片桐にとってはずっと願い続けていたこと、だったのだが……。
 
 ハードボイルドで哀しい、清く正しく美しくはかない10年愛の物語を、ぜひ読んでみて下さい📖


娘役
KADOKAWA/角川書店
2016-04-27
中山 可穂

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私と音楽―CDウォークマン編―

大学は外国語大学だったので、必然的に「洋楽が好きで英語が好きになった」「洋画が好きで英語が好きになった」というような学生が周りにいっぱいいて、私も洋画をいろいろ見てみたり、友人が貸してくれたクイーンのアルバムを聴いてみたりしたけれど………
 ごめんなさい。
 今の今に至るまで、なぜか洋楽が好きになれないのである。

 原因を自分なりにいろいろ考えてみたりもした。
 「歌が上手すぎて隙がないから」「演奏が上手すぎて隙がないから」「本当は英語より国語の方が好きだから」「ぶっちゃけ何を言ってるかわからないから」「訳詞が気取っていて好きになれないから」etcetc………
 今でもはっきりした理由は分からない。
 高校時代の私を知ってる人は「え? つむさんってビートルズのファンじゃなかったっけ?」と言うかもしれないが、あれは世を忍ぶ仮の姿。
 確かにビートルズのアルバムはよく聴いていたが、そこから発展して洋楽をより幅広く聴くという展開にはならなかった。もっと洋楽をよく聴いていれば、英語の成績ももっと上がっていたかもしれないが……。

 まあそれはさておき、キャンパスに洋楽が溢れる中、私は当時流行っていた渋谷系を中心に相変わらず日本のロックを聴いていた。
 高校時代から好きだった「詩人の血」、レピッシュ、コーネリアス、小沢健二、サニーデイサービス、スピッツ、カーネーション……。
 中でも大学時代最大のトピックといえば、現在に至るまで愛し続けているバンド、カーネーションに出会ったことであろう。
 「カーネーションっていうバンドが好きで」と言うと、よく「ああ、スウェーデンの」とよく返されたものだ(それはカーディガンズや!)。
 カーネーションがどんなバンドなのかは、ブログにも散々書いているので参照していただくとして、生まれて初めて自分のお金で、自分でチケットを買って行ったライブが、カーネーションの心斎橋クラブクアトロ(1996年10月)だったのである。
 就職活動へはウォークマンでカーネーションを聴きながら出かけた。
 就職して大阪で一人暮らしを始めてすぐ、ファンクラブに入会した。
 絶望と失意にまみれて故郷に帰ってきた時も、地元で細々と働き始めた時も、結婚して再び実家を離れてからも、母親になってからも、再就職した現在も、常にカーネーションの骨太で滋養あふれるバンドサウンドが手元にあった。
 そこからいわゆるメトロトロン人脈を聴くようになり、だいたい現在の私を形づくる音楽が出そろったわけである。

 リモコン無しのウォークマンは10年くらい使用した頃に突然うんともすんとも言わなくなり、リモコン付きウォークマンに買い替えた。  
 ちょうどその頃、兄からCDウォークマン(ソニーのディスクマン)を譲り受け、眠れない夜にボサノヴァを聴いたりした。
 結婚して夫が持ってきたミニコンポは、子どもが小さい頃は童謡のCDをかけるのに大活躍した。

 そして現在は、ビクターのALNEOという(今は無き)DAPに、PCから音楽を取り込んで聴くという状態になっている。
 このALNEOという機種、音は素晴らしく良いしFMラジオも聴けるし、とにかく最高のDAPだと当時は思っていたけれど、なぜか電源が勝手に切れてしまうなどのトラブルが多く、修理に出したりもした。
 それでも乾電池で聴けるという便利さは捨てがたく、乾電池のふたが壊れてしまった今も変わらず使い続けている。
 今ではスマートフォンで音楽を聴く人が圧倒的多数になり、DAPといえばiPodとウォークマンの2強に絞られてきてしまったが、ビクターさんにももう一度奮起してもらいたいものである。
 
 つらつらと思い返してみて、現在に比べて若い頃はなんと熱心に音楽を聴いていたことだろうと痛感する。
 今なんて、CDも一年に一枚買うか買わないか(毎年5万円分もCDを買っていた頃もあるというのに…)。
 好きなアーティストの新譜を買っても、聴かずに積読ならぬ積聴してることも増えた。
 DAPを聴いていても、他のことをぼんやり考えてしまい、純粋に音楽に集中する集中力が衰えてきた。
 配信もいまだに買ったことがないし、ウォークマンに入っている音楽をBluetoothでコンポに飛ばせるんですか、今って? なんかそのあたりも全然ついていけてない。
 あんなに音楽がすべてで、服もコスメも買わずにCDばっかり買っていた時期もあるのに、今は目先の現実的な事象にあたふたしているうちにばたばたと日々が、そして年月が過ぎて行ってしまっている。
 それが大人になるということなのか。

 時間が許せば、のんびりCDショップに出かけてみたいんだけど……。

 大学4年から就職にかけての私を支えてくれた超名盤。
 EDO RIVER(Deluxe Edition) - カーネーション
EDO RIVER(Deluxe Edition) - カーネーション

私と音楽―カセットウォークマン編―

父というのはかなり慎重な人で、家電を買うとなるとあらゆるメーカーのパンフレットを入手し、何度も店に足を運んで決めるタイプの人であった。 
 安かったからとか見た目がきれいだからというだけの理由でポンと買ってしまって後悔するというタイプの人ではない。 
 そんなわけで我が家にやってきた初めてのシステムコンポは、ONKYO Radianという機種のものであった。南野陽子がイメージキャラクターだったのだ、一応。
 これ、ものすごく音も良くて、機能も充実していて、家族みんなが飽きてしまってからも私だけはかなり長いこと愛用していた。
 さすがに30年近く経った今となっては、CDのOPENボタンを押しても開かなくなってしまったけれど…。

 高校1年の時、貯めたお年玉をはたいて、初めてのウォークマンを(もちろんカセットのですよ)購入した。
 ケチってリモコン付きのを買わなかったのでのちのちまで不便を感じることにはなるんだけれど、やはりどこでも好きな音楽を聴けるというのはうれしかった。
 大学に入り一人暮らしを始めた兄は、SANSUIだったかな、これまたちょいマニアックなメーカーのステレオを買っていたので、余ったDENONのCDデッキを私に譲ってくれた。
 そこにウォークマン用のSONYのちっちゃなスピーカーを買ってつなげ、勉強机にちょこんと置いた。 
 これで自分の部屋でもCDを聴けるようになったのだった。

 そうはいっても、母校であるO高校は相当キビシくて。
 宿題がごまんとあって、小テストも毎日のように。
 クラブ活動も熱心で、帰宅すればもうへとへと。
 音楽聴いてる暇なんてなかったはずなんだけれど、高校1年当時の私はかなり荒れていたので、宿題もそこそこにリビングのシステムコンポにかじりついて「たま」とかレピッシュとかのCDをカセットにダビングして聴いて、夜遅く就寝という毎日だったのだ。
 志望校に入学してはみたものの、成績は振るわず、入ったクラブにも居場所はない。
 クラスには友人が一人もできない。
 気持ちが不安定で、本当にいつグレてもおかしくない状態だったのだ。
 いまだにあの頃のことを思い出すと……といってもあまりに辛かったのでほとんどの記憶を意識的に消してしまっているのだけれど、暗い気持ちになる。本当に音楽だけが心のよりどころだったのだ。
 中島みゆき「親愛なる者へ」というとてつもなく重いアルバムを買って、弾けもしないフォークギターで弾き語りの真似ごとをしてみたりしたのもこの頃である。
 その後、合わないクラブを辞めて別のクラブに入部し、仲間たちにも恵まれてやっと明るい青春時代が到来するんだけれど、相変わらず成績はかなりヤバく(極端なのである。英語と国語と音楽は学年ベスト10以内、それ以外はワースト10以内というような)、その他の問題もあって、やはり音楽は手放せなかった。

 「そ×××事」「愛××つ」「ど××××も」「ほ××××いよ」「君××××けで」とかが流行っていた時代なんだけれど、かなりねじ曲がっていた私はこういうのにはまるで共感できなかった。
 いまだに「頑張れソング」的なものを、子供とかに聴かせる分にはいいけれど、自分の手元に置いとこうとは思わない。
 だから、たとえば東日本大震災の直後、「あなたが選ぶ今聴きたい、聴いてほしい元気が出る歌」みたいな番組がけっこうあったけれど、自分の中にそういった曲のストックが全然ないのに改めて気づいて愕然となったのだった。

 当時ずっと聴いてたたまのセカンドアルバム「ひるね」。馥郁とした名曲ぞろい。
 ひるね(紙ジャケット仕様) [BRIDGE-201] - たま
ひるね(紙ジャケット仕様) [BRIDGE-201] - たま

私と音楽―カセット編―

 はじめて自分専用の音楽機器を買ってもらったのは小学5年生の冬、「SANYO おしゃれなテレコ WU4」というラジカセだった。
 ダビング、それも高速ダビングができるのが画期的だったラジカセ、CMもよく流れていたので覚えている人も多いだろう。
 真っ赤な色もうれしくて、表面を拭くなんとかポリッシュというのを買ってせっせと磨いていたし、ヘッド部分も綿棒と専用の薬できれいにクリーニングしていた。
 ヘッド部分に磁器が溜まって音質が悪くなるのを防ぐ、カセット型の機械(当時で4千円くらいした)も頑張って買って、定期的に消磁(しょうじ)(この言葉を知ってる人は……?)していた。
 現在ズボラ主婦の私からは考えられないくらい、当時はきちんとメンテナンスしていたのだ。

 ラジオ(おもにFM)もよく聴いてはエアチェック(←もはや死語か?)していたものだ。
 再生と録音ボタンを同時に押すと生じる「ボンッ」という音が録音されないようにするべく、あらかじめ一時停止ボタンを押しておいたうえで再生・録音ボタンを押し、好きな曲がアナウンスされるとすかさず一時停止ボタンを解除する、そうすると「ボンッ」音は入らずにすむ、というテクも試行錯誤の上身につけたものだ(この話を夫にすると「そうやったんや! 僕、一時停止ボタンって何のためにあるんやろうと思ってた」とのたまった)。
 
 そうそう、おそらく30代以下の人々は知らないだろうけれど、当時はアルバムがリリースされると、LPレコードだけじゃなくカセット版も発売されていたのです。
 LPレコードはやっぱりどうしても大きくて扱いづらい。
 傷も付くし、最悪割れちゃったりするともう聴けなくなる。
 裏返すのも面倒だ。
 というわけで、私もチェッカーズの4枚目のアルバム以降はカセット派になってしまった。もちろん買うとすぐに空のカセットにコピーしてそっちを聴いていた。
 父も北欧フォークから菅原洋一までフォローする音楽好きだったのだが、このころになるとやはりカセット派になり、ユーミンとか中島みゆきとかのカセットを買ってきては車内でかけたりしていた。
 
 そんなこんなで私とカセットテープ、そしてラジカセの蜜月はかなり長く続いたのだが、時代はすっかりCDにチェンジしていた。
 兄の高校入学祝に父がDENONのCDデッキを買い(スピーカーもついてなくて、聴くためにはヘッドホンがないといけない)、兄も中森明菜とかTMネットワークとか続々CDを購入していき、私も聴かせてもらったりするようになった。
 中でもTMはかなり好きで、当時の私の小遣いではちょっと厳しい価格だった「GB」とか、まだ買える部類だった「PATIPATI」(どちらもCBSソニー出版。のちのソニーマガジンズ)などの音楽雑誌を、TM目当てに買うようになったのが中学1年生の頃。
 バンドブームを牽引していくことになるユニコーン、レピッシュ、バクチク、ブルーハーツといったバンドたちが顔を出し始めた頃だ。
 中学時代というのはどなたもそうかもしれないけれど本当にハードで、学校、部活、塾、友達づきあい、家庭と、いろいろ悩み深い日々だったのだけれど、夢中になれる音楽が私を救ってくれたのだと思っている(それは現在に至るまで)。
  
 生家を取り壊して現在の実家が建てられたのが中学1年の11月。 その後少しずつ家電を新調し、ついに我が家の音楽状況にも革命的変化が……。
 CDをメインとしたコンポを父が買ったのである(続きは次回)。

 ちなみに兄が買ったCDで私もよく聴いてたのはこれ。
Gift for Fanks(DVD付) - TM NETWORK
Gift for Fanks(DVD付) - TM NETWORK